2011年12月25日日曜日

私の東日本大震災 4


5月以降

その後、段々と落ち着きは見せてきたものの、余震は半年以上継続。
ただ、一部で懸念されていた、関東への大地震は現在のところ起きていない。

数ヶ月して、被災地へのボランティア体制なども整い、会社の同僚や上司が被災地にボランティアに行ったり、人によっては会社を辞めて現地へ行った人もいた。

私も微々たるものだが、募金や被災した知り合いに家財をお渡ししたりした。

また、今年は転職、結婚、出産する人が多く、この地震が直接的な被害を被った方々以外の人にも大きな影響を与え、様々な転機を生み出したことが分る。


原発は12月に収束宣言が為された。宣言事態が政治的判断だとか、批判は多いが、事実今まで測定を続けてきた格納容器の温度が安定的に100℃を下回り、ステップ2が完了したことはデータからみて間違いないだろう。

これは、現地での困難を極めた作業の成果だ。実際に作業をして下さった方には本当に頭が下がる思いです。

しかし、如何せん未だに除染作業の遅れや今後も継続する食物への放射性物質の混入など心配は絶えないし、福島第一原発を更地にするには30年~40年が掛かるということだ。

現在日本にある原発の実際の稼働率は20%(11/54)程度だ。今回の事故で原発の危険性は元より経済的な優位性についてもかなり疑問視が出てきている。


管前総理の再生可能エネルギーの全量買取制度により、太陽光ビジネスは破竹の勢いで拡大しており、昨日業者に聞いた話では、業者の数自体が非常に増えたし、全量買取の価格が発表されるという来年春のスタートダッシュに向けて、各企業が様々な施策をすでに始めているそうだ。

もちろん再生可能エネルギーだけでは、現在日本で使っている電力すべてを賄うことは出来ないが、原発を無くし、さらに空気や環境を出来るだけ汚さないエネルギー政策が加速することを祈るばかりだ。



最後に

今回の地震で命を失った方のご冥福をお祈りします。

そのご家族の方々、被災者の方々、お悔やみを申し上げます。

被災地や原発での復興作業に携わった皆さん、ありがとうございます。

日本を支援してくださった海外皆さん、ありがとうございます。


皆様の来年がすばらしい年になりますように。

私の東日本大震災 3


3月16日、17日(水木)

相次ぐ爆発によって大量の放射性物質が拡散したようで、
原発にはヘリでの放水も難しいほどの放射線が出ていたのがこの日だ。
緊張が張り詰めている。使用済み核燃料棒の危険性の顕になり、
コンクリートポンプ車での放水も検討され出した。
誰が見ても想定範囲よりもずっと悪い状態であることは明らかだ。
一時情報に統制の動きも見えてきた。
検出された高濃度の放射線についての報道が消されたり、
今後の見通しについての報道等も消えた。
恐らく最悪の事態が起こる可能性が最も高まっていたのがこの頃だろう。
15日前後に大量に放出された放射能の影響か、
茨城や埼玉でも一時1μSv/hレベルの放射線が観測された。

3月18日(金)

この日、最悪の事態のリスクを回避するために関西に一家で避難旅行に出かけた。
妊娠初期の妊婦や幼児がいる身としては、
格納容器の爆発や使用済み核燃料の再臨界の可能性が下がるまでは福島から500kmは離れておきたかった。
目的地はまずは滋賀県。目指す途中に被災地に向かう消防隊などとも遭遇した。
名古屋よりも西はほぼ通常の生活になっており、今までの日常がすばらしかったんだなと実感。

3月19日~21日(土日月)

19日、20日は原発の状況が以前として気が抜けない。
せっかく滋賀に来たので観光をしたりして気分転換。
京都にも行ったりした。

21日になり、週末に比べて原発の爆発リスクは低減したと判断したことと、
子供と妊婦だけ置いて行くのは出来るだけ避けたかったので帰宅。

3月22日~28日

前日からの4日間、ついに雨が降り、関東地方に放射能が降り注いだ。
その量は、大気中の核実験が行われた1960年代の総量のおよそ3倍だったが、
健康にはほぼ影響はないレベルだった。

11日~15日の放射能がばら撒かれたとき、原発周辺の風向きは海を向いていた。
この風はまさに神風で、この風向きが逆を向いていたら、関東の被害はこんなものではなかっただろう。

原発の状況に若干良いニュースが出てきたのもこの頃だ。
コンクリートポンプでの放水や、ヘリからの放水が実施出来たのだ。
これにより、少なくとも原発のすぐ近くまで人が近づけることが分った。

事態は悪化の一途から、膠着状態へ変わってきたことの証明だった。

また、関東地方の水道水にも放射性物質が検出され、ミネラルウォーターは姿を消し、
各種の作物にも放射性物質が続々と検出された。

週の後半以降では、やっと今後の見通しが語られるようになってきた。
非常に困難な難題を越えて、1兆円~数十兆円とも言われる保障や復旧費用と、
数十年以上の時間を掛けていくそうだ。


3月29日~4月

やっと被災地や原発の状況が若干の落ち着きを見せ、復旧への第一歩が踏み出せる気がしてきたのがこの時期。
しかし、死亡者行方不明者は合わせて2万8000人を超え、津波によって東北の沿岸の街は軒並み壊滅的な打撃を被っており、
復旧の計画すら侭ならない状態だ。

原発からは現時点でチェルノブイリの1/10ほどの放射能が放出され、
半径30km以内+αの土地は人が長期に渡って住めないほど汚染された。
海洋汚染等により、各国の目も厳しい。

原発事故のレベル7引き上げや、連続するM6~7クラスの余震は、この震災が未だに初期段階であることを明確に示している。

管総理がこの頃に言ったとされ、批判を受けている二つの言葉は、恐らく事実で、今後証明されるだろう。
「最悪の場合、東日本が潰れる危険性があった。」
「(原発の周囲は)当面住めないだろう。」

次回に続く

2011年12月24日土曜日

私の東日本大震災 2


3月12日(土)

朝起きてニュースを見ると、真っ先に飛び込んできたのは、「壊滅」という言葉だった。

戦争のニュース以外でこの単語を聞いたことがないし、
まさかそこまでは。と思っていたが、実際の映像を見ると
「壊滅」という表現が正しいことがすぐに理解出来た。

死者は数万人オーダーになることは残念ながら直感的に分った。
しかし、ニュースでの死者・行方不明者数が非常に少ない。

つまり、一晩経っても状況把握すら全く出来ていないということだ。

さらに、原発がダメージを受けていることが大きく報じられる。
福島第一原発の一号機は爆発した。
テレビの解説をしていた専門家が青ざめる。

背筋が凍った。


最悪の場合、東京を含めた東日本が致命的なダメージを受けて、
日本が破滅するシナリオすらありえる状況だった。


3月14日(月)

月曜になっても電車はまだ回復しない。
動いている線路もあるが、この日の出社率は50%程度だったようだ。

被災地の打撃がどれだけ致命的かの報道よりも原発の報道でテレビは埋め尽くされていた。
この日、プルサーマル計画を実施している福島第一原発の3号機が爆発した。

冷却のコントロール状況もどんどんと悪化していき、
最悪の事態が「もしかすると」という確率ではなくなっていることは
素人にも明白だった。

関東地方への電力供給も需要を賄えないレベルに低下し、計画停電が実施された。
計画停電に備えて車用バッテリー、充電器、インバーターを揃える。

マスコミは未曾有の打撃を受けた東北地方の報道よりもずっと長い時間を原発の問題に当てている。
津波での被害規模が大きすぎて、支援や救出に行くどころか、全容すら把握出来ていなかったからだ。
また、家屋は倒壊ではなく、津波で流されている状態であり、それに巻き込まれて助かる人の数は
非常に少ないことが段々とわかって来た。


3月15日(火)

震災後初めて出社。余震は依然として続き、原発は2号機までもが吹き飛ばないものの爆発。
4号機には火災。これで1~4号機すべてに大きな異常が発生したことになる。
どれか一つでも格納容器に致命的なダメージが生じれば、冷却作業が全てに対して実施困難となるわけで、
ほとんど手の施しようがなくなる。まさに綱渡りが続いていた。

次回へ続く

私の東日本大震災 1

2011年、日本は本当に大変な一年になりました。
年末になったので、この震災を忘れないように、当時書いておいた記事をブログに載せておこうかと思います。


2011年3月11日(金)14時46分。
日本の歴史が大きく変わった瞬間だった。
東京でも震度5弱。
関東大震災以後最大級の震度だった。

揺れはじめは小さな縦揺れで、
それが直下型の地震が離れた位置で起きたことを示唆していた。
しかし、本震が来るまでのディレイが長かったので、
まさかあそこまで揺れるとは想像出来なかった。
それから数分間大きな揺れが続き、
恐らく震源は100km~200km離れたところだろうと予想した。

揺れが収まったところでビルから避難する最中、
この地震が岩手の沖合いで起きたことを知った。
震源との距離は約400km。そして震度5弱。戦慄した。
そう、あの初期微動の長さは正しかった。

そしてこの情報は東北地方に想像も出来ないほどの
打撃を与えていることを告げていた。

渋谷の路上はビルから避難してきた人で埋め尽くされていた。
そして上司が状況把握と今後の対応について協議しているころ、第二波が来た。
今度は茨城だった。東京では第一波と同レベルの揺れを感じた。

その前や後にも大きな余震が何度もあり、止まろうとしない。
地震に相当慣れている日本人だが、理解の範疇を大きく超えていた。

JRを含む電車は全てストップし、携帯での電話、メールも繋がらなくなった。
ネットやワンセグでの情報収集が可能だったのが救いだ。

余震が収まったころ、ビルに戻り、携帯を充電してから家を目指して徒歩で帰宅した。
出来るだけ早く家族の元に戻ることが私にとっては最優先事項だった。

帰路の東京はまさに非常事態の様相を呈していた。
JRの駅は全て閉鎖されシャッターが閉まっている。

道には徒歩で帰宅する人が溢れ、主要道路は車で埋め尽くされてすさまじい渋滞になっている。
量販店の自転車は全て売り切れ、多少郊外にある自転車専門店では
夜を徹して営業するしかない状況で、納車に2時間掛かるという。

午前3時に帰宅しその日が終わった。
まさか次の日からこれほどまでに日本が変わってしまうとはその時はまだ想像出来なかった。

次回に続く。

2011年12月11日日曜日

ピストをゴールド化

東京のピスト専門店IMMIGRANT Cycle Garageが閉店するということで、安売りしていたパーツを色々と買ってきました。
まずはホイール。GRAN COMPE WHEEL Gold Rim.のフロントと、同じハブを使ってH PLUS SONのゴールドリムを使用したリア。


あとはペダルや、そのお店オリジナルのクランクとTANGEのBB、grangeのゴールドなステムなどを付けます。


それにしても、BB外すのが大変だった。。硬すぎ。
TANGEのBBはなかなかいいですね。両ワン金属で質感がいいし、回転も結構スムーズ。


その他、うにうにとくっ付けて完成。
ピストはギア系がないからカスタムが超楽ですねー。


乗り味は標準に比べてものっすごい硬くなりました。
ホイールも重いだけあってガチっとした感じで、なによりクランクが思いっきり硬くなって反応が非常に良い感じ。
ただ、やっぱり重量が重いので、初速のクイックさはそうでもないです。
ただ、速度が伸びてきたときの乗り味は楽しい。もっと出力を入れろって言われてる気がするマシンになりました。